読書『大義の末』
8月は戦争に関する本3冊目。城山三郎の『大義の末』を読む。本書は、城山氏本人の戦争体験をもとに書かれた私小説といえる作品である。
本書を読むと、我々がテレビやメディアで取り扱われる戦争とは別の側面を理解することができる。
戦争は多くの人命を奪う、だけでなく「人間のアイデンティティ」を奪うということだ。
天皇が中心の思想
日本は太平洋戦争を堺に、大きなパラダイムシフトが起こった。現在の日本と、戦前の日本は同じ国ではない。大きな違いは「天皇」だ。
大日本帝国では天皇は日本の君主であった。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ということで日本の国体は天皇に帰するわけだ。
本書の主人公、柿見が受けた戦前の教育は「天皇がすべて」だった。だから命がけで戦った。沖縄を取られて、本土が焦土化して、最後原爆を2発落とされるまで降伏しなかった。無条件降伏をすれば天皇制がなくなると確信していたから。
天皇制こそが彼らの生きる指針であり、自分のアイデンティティの根幹をなす思想である。それがなくなったら生きていけない。何を目標に生きればよいかがわからなくなる。
体制が変わっても生きていけるという矛盾
最後に天皇自らが国民に語ることで終わった太平洋戦争。国民は涙を流して嘆く。きっと日本=天皇が連合軍に占拠され、新しい体制が敷かれるだろう。そう思った。
ところが、天皇は生き残った。皇室は無傷。象徴という名を使って、人間天皇として国民をまとめていく役割を担う。
その時、柿見は問う。「天皇制って何だったのか」
自分たちが信じて血を流し、多くの同胞が彼のために戦い命を落とした。それでも、世の中は続いていく。しかも全く違う世界になって。
そして周囲は徐々に新しい世界に溶け込んでいく。
柿見は担当教師から『大義』という書物を教えてもらい、その生き方・考え方に感銘を受け、命を投げ売って国体に尽くしてきた。
しかし『大義』を渡してくれた当の本人はアカ(共産主義)だった。一緒に戦った上官や同僚は戦後の厳しい経済の中で、生計を立てるために信条を捨てた。
我を失う柿見は、精神的に追い詰められて奇怪な言動を繰り返すことになる。
菊の御紋の入った拳銃を守るために傷を負い、それがために仲間を死なせてしまったという過去のトラウマ。そこまで信じていた天皇制のイメージがもろくも崩れ去る。
必死で守ろうとしたもの=天皇制が、アメリカによって別の意味を持って息を吹き返し、かつてと同じ熱狂を誘う。
最終的には自分が信じた思想に楯突くようになっていく。
なぜ人は戦うのか
これは非常にセンシティブな問題である。ある日突然、自分の信じてきたものが失われる、あるいは虚構だと暴かれる。この衝撃は何年も、何十年も後を引く。
新しい思想なり体制なりをすんなり受け入れられる人もいる。が、うまく生き抜けるかは別問題。葛藤を抱えながら自分を偽って生きることは辛い。
今世の中で起こっている争いも、自分の思想や価値を守るためなのだ。
香港では中国共産党からの圧力が増して、彼らの信じる「民主主義」が失われるかもしれない。だから戦っている。民主主義が奪われたら、表現の自由や基本的な人権までも奪われる。
しかし、一方で別の不安もある。実は中国共産党の体制側についたほうが幸せだったら。中央集権による管理社会ではより安全で豊かな暮らしができるのかもしれない。
「民主主義がなくても生きていける世界がある」ことを実感したら、なんのために尽くしてきたのかと茫然自失になるだろう。
それはそれで嫌なのだと思う。
つまりアイデンティティの問題は2つある。
自分のアイデンティティを壊される恐怖と、別の価値観で生きることができる=アイデンティティが絶対ではなかったことを知る恐怖だ。後者のほうが、事態は深刻だ。
夥しい数の犠牲者を出しながら死闘を繰り広げた憎き敵国。その敵国の作った憲法を受け入れ、それによって戦前よりも豊かさを享受できる、となると、自分が信じていた価値観が間違っていたと思い知らされる。
柿見がいたるところで「天皇制はどう思うか」と聞いて回っているのは自分の今まで生きてきた証が欲しいように思える。
「信じるものがある」というのはある意味悲惨だ。自分の思想や宗教に絶対的な価値を見出している人ほど、それが崩れたときの衝撃は大きいのだと思う。
太平洋戦争は、そういう意味で日本人の根幹にある思想や価値を壊したのだと理解できる。
翻って現代はどうだろう。俺に限っては特に思想は持たないようにしている。もし仮に日本が中国の属国になって支配されるとなったら、すんなり受け入れるんじゃないか、そんな気もしている。
香港や各国の抗議運動などを見ていると、自分の思想や価値の薄っぺらさに気づいて、時々嫌気がさす。